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長いお別れにむけて

カラス

学生の頃から住んでいたアパートを引き払った。引越し自体はなんだかあっという間に終わってしまった。わたしは今東京で暮らしている。職場まで、今までの半分くらいの時間で行けるところにいる。東京のアパートは秘密基地みたいに狭くて、恐ろしく静かだ。朝、目を覚ますたびに、ここはどこだ? と思ってしまう。街の「くせ」がわからなくて、怯えている。正直に言えば、わたしは今とてもこわい。ひとりでどうやってこれから先やっていけばいい、今までわたしはどうやってきたのだっけ。



わたしは彼に電話を掛けたことが一度もない。気まぐれな電話。公衆電話越しの声はとても遠く聴こえる。



書くことが自分のすべてだとか、自分には書くことしかない、と言っていた人たちが何も書かなくなるのを黙って見ている。多分、彼らは、若い頃の彼ら自身がひどく嫌悪した「しあわせ」にどっぷり沈み込んでいるのだ。もう書かなくてもいいくらいに。恥じたり正当化したりする必要はないのに、彼らはわたしを笑って言う。「まだ、そんなことやってるのかよ?」とにやにやして言う。そしてわたしはまだ書いている。ただし、わたしは、書くことだけが自分のすべてだ、とは思っていない。だから彼らに何も言わない。



ベランダに出て階下を見やる。目玉を落としたカラスが電柱の傍らでわたしを見上げている。カラスはかつてのわたしだ。まだそんなことやってんの? 沈黙。お前はどうしようもない馬鹿だ。沈黙。あなたみたいな馬鹿は大嫌い! 沈黙。死んでくれ。沈黙。彼女のしあわせのために! 沈黙。沈黙。沈黙。沈黙。カラスを指鉄砲で撃ち殺して、煙草に火をつける。東京の月に煙を吹きかける。沈黙。
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